大学時代の味炉の話
稀気大学の廊下をカツカツと歩く音がする。廊下に設置されている椅子に座っている味炉は、手にもっていたパックの紅茶に刺したストローから口を離し、足音のする方へ目を向ける。
時は二月も終わりの頃だった。大学は春休みだが、味炉はある書類を提出するために大学に来ていた。
稀気大学の元素学部は基本入試が面接のみなので、この時期はだいぶ暇している。
味炉は、何か思い悩んだふうにふうと息を吐くと、目の前に立つ青年の姿を見る。
「飯矢」
一つ年下で、学年も一つ違いのアルゴンこと飯矢が、そこに立っていた。
「味炉、教授が」
くいと親指を教授室の方に向けると、飯矢は嫌そうな顔で味炉を見ていた。
「……なんだよ、神妙な顔して。書類提出に行くんじゃないのか?」
飯矢が問う。味炉は、書類の中身を見られないように隠す。
「いいだろ別に……飯矢、俺さ」
何か言いかける味炉。しかし、何もないよとすぐかばんを担いでいこうとする。
「お前さ……隠し事多いよな。その割には、嘘が下手だ」
飯矢がそう言うと、味炉は眉を顰めてむっとした表情になる。
「何、用はそれだけ?」
味炉がムキになって言い返す。飯矢とは、どうしても顔を合わせると喧嘩になってしまう。昔から、なかなかウマが合わないのは、仕方ないことなのかもしれなかったが、大抵は味炉が先に折れて終わっていた。
でも今日ばかりは別だ。味炉も折れられない理由があった。
「……天、大学受かったから四月から俺らの後輩なんだけど、小石の方はどうなんだ?」
飯矢が尋ねる。味炉は尋ねられたくなさそうな顔をする。少し目尻が滲んでいる。やっぱり何かを隠している。そう確信した飯矢は、味炉の肩を掴む。
顔をこっちに向かせると、飯矢は味炉の目を見つめる。
「小石は……大学を蹴ったよ」
「は?」
味炉の口から出たのは、本来なら天と一緒に入学する予定だった小石が大学入学を取りやめた話だった。
「あの二人仲悪かったか?心中した仲なのに?」
味炉はため息をつきながら、さっきカバンにしまった書類を出す。
「違うよ。飯矢……小石は、俺についてくることになった」
そういって差し出されたのは、記入済みの退学届だった。
「は?お前大学辞めるって……小石がついてくるって……?」
飯矢は何も理解できない顔で味炉の顔と手元を交互に見る。
「俺、カメラマンになる。大学は辞める。小石は俺についてくる。以上」
そういって飯矢から視線を逸らし、味炉は立ち去ろうとする。
飯矢は納得できないような顔をしていた。
「お前は大学に残るんだろ、天君を任せたよ」
「待てよ味炉!」
「お前には関係ないだろう!」
味炉がパンと飯矢の手を払うと、綺麗な顔を歪ませて拒絶する。
「飯矢は俺のことなんてどうでもいいだろ??俺が……俺が、どんなにお前のかげに隠れてても、お前は俺の方なんて向かないじゃないか??」
「違う!お前は……お前は、俺よりよっぽど」
「それ以上聞きたくない!」
味炉からの拒絶の言葉に、飯矢はそれ以上何も言えなかった。
「じゃあな、飯矢」
そう言って、味炉は事務室に向かって歩いて行った。
飯矢は手を握りしめて俯き、唇を噛む。
「お前は、俺の陰に隠れてるだけの存在じゃない……」
その後、味炉と小石がカメラマンとしてそれなりの成功を収めている姿を街の広告で見た飯矢は、このままでいいのかと何度も自問自答した。
飯矢が味炉以上に成功していることに気づいた時、絶対にこれを気づかれてはいけないと考えたのは。
きっと、自然な流れなのだろう。